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2010年6月27日日曜日

へんてこな北海道地図が語るもの


へんてこな北海道地図が語るもの
(広報増毛「増毛歴史小話」より)

 日本の北の端にある北海道。江戸時代末期までこの大きな島「蝦夷地(えぞち)」の全容は謎のままでした。元々和人が松前や江差など道南にしか拠点を作らなかったことや、国内における測量技術が未発達だったことが原因として挙げられます。蝦夷地は大きいのか小さいのか、島なのか大陸から出た半島なのか、地形的なこともほとんど知られていなかったのです。
 写真は1621年、松前を訪れたイエズス会士ジェロニモ・アンジェリスによって描かれたものです。蝦夷地は東西に長い、本州よりも巨大な島として表現されています。西の端にはTexxoy(天塩)という表記が見られ、「松前から船で西へ○○日間行くと天塩に着く」といった情報から位置を特定したらこのような地図になったのではないかと考えられています。
 1670年頃、日本でもようやく全国の地図を整備する動きが起こり各藩が提出した資料を基に「正保日本図(しょうほうにほんず)」が製作されました。松前藩による蝦夷地の地図は、縮尺はひどく狂っていて(青森よりも小さい!)形も楕円形というひどいものでしたが、沿岸を一通り調査したらしく、各地の地名を知ることができます。初めて地図上に増毛が現れるのはこのときで、マシケエソ(当時の浜益のこと)、ホロトマエソ(増毛のこと)、トママエソ(苫前)、それに暑寒別川らしきものもあります。
 寺島良安が1715年に発刊した百科辞典「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」に記されている蝦夷地はとても縦長です。相変わらず形は違いますが、徐々に蝦夷地の調査が進んでいる証拠として、記録される地名が大幅に増えており、樺太や歯舞諸島等も描かれています。ヘツカリ(別苅)、ホロトマリ(増毛)なども記入されました。
 天命5年の調査などを経て徐々に地図の輪郭は正確になっていき、1821年の伊能忠敬による「大日本沿海與地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」でほぼ完璧な測量による地図が完成します。しかし、この地図はあまりにも正確だったために軍事上の機密として公にはされませんでした。
地図上の蝦夷地が徐々に正確になっていく様、それは和人の支配が北辺に行き届いていく過程であり、島国日本が国土の防衛を意識していく歴史の再現とも言えるでしょう。