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2010年9月19日日曜日

よみがえる増毛山道

 「増毛山道の会」によって現在復元が進められている増毛山道。通る人もいなくなってから久しいこの山道跡に、現在再び注目が集まっています。増毛山道とは増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶための9里程(諸説あり)の道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削したものです。工事にかかった費用は同時期に行った濃昼山道と合わせて1650両とされ、現在の貨幣を1両=13万円と仮定すると2億1450万円。一介の商人が拠出する金額としては少なくない額ですが、これはどちらかというと幕府の意向に沿ったものでした。伊達家の文書中に山道開削に関し「利害ニ預リ無據請込(りがいにあずかりむこうけこみ)」という文面が見られ、自分が幕府の御用達であり、漁場を請け負っている立場上、自費で受けざるをえないという伊達家の状況が伺えます。

 幕府が何故山道の整備を依頼したのかについて明確な書類はありませんが、安政4年という時代を考えると、国土防衛という面が見えてきます。当時蝦夷地は南下するロシアに対向するため各地に陣屋を築いて東北諸藩に警備を命じており、宗谷から松前・函館へ至る緊急時の陸上道路の設置は重要な課題だったのではないでしょうか。

 明治に入ると山道は郵便物をやり取りするための重要な道路となり、途中には武好駅逓(ぶよしえきてい)が置かれました。雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達がここでお互いの郵便物を交換し、また戻っていくという業務が繰り返されたのです。駅逓には管理人が置かれ、旅人の宿泊などにも利用されました。山岳画家の坂本直行が大正15年頃に駅逓を訪れており、この時には60過ぎの老人が管理人をしており、訪れる人はほとんどいないと言われたことなどを画文集の中で述べています。

 今では増毛-浜益間は国道が整備され30分もかからずに行けてしまう時代ですが、一山越えて一日がかりだった当時の人々に思いを馳せてみるのもまた一興かもしれませんね。