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2010年11月18日木曜日

写真で語る時代の証人、クラシックカメラ「ベビーパール」



 写真は以前町内の方から寄贈いただいたクラシックカメラ、ベビーパールです。撮影にはベスト版と呼ばれる3×4センチのフィルムを使用します。メーカーは小西六(こにしろく)本店、後のコニカで、昭和9年に発売されました。

 「光を写し取る機械」であるカメラは1826年、フランスのニエプスによって初めて実現します。ガラスにアスファルトを塗ったものにレンズを通した光を当てることで写真の撮影を可能としたのです。1889年になるとアメリカのイーストマン・コダック社がセルロイド製のロールフィルムを開発。これにより写真撮影が一般へと広く普及するようになりました。

 フィルムカメラの黎明期はドイツ・イギリス・アメリカが世界の市場を席巻しており、日本はこうした海外のカメラを模倣するところから開発が始まりました。もともと薬種屋だった小西六は写真材料を輸入販売する傍ら、日本初のカメラ「チェリー手提暗函」を明治36年に開発。昭和に入ると同社はドイツのツァイス・イコン社製のコンパクトなカメラ「ベビーイコンタ」に刺激を受けて、ベビーパールを発売します。ベビーパールはその写りの精度の良さから本家のイコンタを超えると評判になり、多くの愛用者を産みました。模倣から始まった日本のカメラ作りが、ようやく世界に通じるレベルへ近づいたことを証明したのです。

 ちなみに増毛町で写真館が営業を開始したのは明治27年、石川雄之助の石川写真館が最初です。場所は現在の暑寒町4丁目でした。町の人に古い家族写真を見せていただくと石川写真館の刻印が押してある写真を多く見かけます。昭和に入ると写真館も増え、一般の人にも写真を趣味にする人が出てきます。ベビーパールはそんな時代の増毛の風景を写してきたのかも知れませんね。

 / 小野

11月のお勧め図書


ちっちゃなトラックレッドくん
 みやにしたつや 著

 トラックのレッドくんは、たぬきさんからうさぎさんに荷物を頼まれたのですが、道の途中でタイヤがパンクしてしまいます。さあ、レッドくんは荷物をぶじに届けることができるのでしょうか?







16歳の教科書
 7人の特別講義プロジェクト 編

 君たちはなぜ、勉強しているのだろう。16歳という今こそ、真剣に考えてほしい。自分が勉強する理由を。大人が読んでも面白い、全国学校図書館協議会選定図書です。

2010年10月18日月曜日

「とびだすカードをつくろう!」に参加しませんか。



気軽に絵本づくり事業「とびだすカードをつくろう!」
日時:平成22年10月23日(日)
場所:元陣屋2階 婦人文化室
対象:小学生(親子でも参加できます!)

 カードを広げると、家や車がポコっと起き上がってくる、そんなオリジナルのカードを作ってみませんか。好みの色でカラフルに仕上げてみましょう。親子でも参加できますので、ぜひ皆様でご参加くださいませ。
 申し込み、お問い合わせは下記までお願いします。

 総合交流促進施設元陣屋
 0164-53-3522(担当:小野)

2010年10月10日日曜日

明治の幕開けと文学作品

 明治時代は維新とともに突然その幕をあげました。増毛町も他地域同様、ニシン漁が隆盛を極め、人々はぞくぞくと海峡を渡って新天地を目指しました。しかし、開拓そのものは容易なものではなく、生きることのみを日々追い続ける、厳しい時代でもありました。
 生活に余裕が出て創造的な文化活動を人々が目指せるようになったのは明治時代も半ばを過ぎていたのです。こうした時代には漁業で潤う町の経済とはうらはらに、本州から流れてきた文人の「漂白の文学」とも呼べる作品が残されました。

 口語短歌の先駆者である鳴海要吉(なるみようきち)が青森からやってきたのは明治42年。彼は増毛小学校教師として赴任しましたが、滞在は一年間だけでした。ローマ字を生徒に教えたりエスペラント語を研究するなどの進歩的な気鋭が当時の風潮では社会主義者として危険視され、古丹別の山奥へ赴任させられた挙句、不敬罪で免職にあってしまうのです。
 その頃の要吉を主人公に、田山花袋(たやまかたい)が「トコヨゴヨミ」という小説を発表しており、この中で要吉は山田勇吉という名前で登場しています。教師の職を追われ、薬の行商で暮らす苦しい生活に加え、未だに危険人物として警察に監視される日々に不安を募らせた彼は「彼方から此方へと漂白して」行くのでした。

 また、明治40年に道立増毛病院に赴任してきた伊達李俊という医師を題材とした人物が、徳富蘆花(とくとみろか)の「みみずのたはごと」で安達医師として登場しています。彼は本州に戻った後精神を患い自殺して世を去りました。一年の三分の一を雪に埋もれて暮らす閉ざされた北国の生活に、安達医師の感じた言い知れぬ寂しさが綴られています。

10月のお勧め図書




ミリーのすてきなぼうし
 / きたむらさとし 著

 ミリーは自分だけのすてきなぼうしがほしいと思いました。ところがお金がありません。でもミリーはある方法でちゃんとぼうしを手に入れることができたのです。さて、その方法とは...?







いのちの約束~北大病院・澤村先生と子どもたち~
 / 板垣淑子 著

 小児がんの中で、最も治療が難しい小児脳腫瘍。全国から救いを求めてやってくる子供たちと一緒に病気に立ち向かう北大病院の澤村医師の壮絶な日々の記録です。

2010年9月19日日曜日

よみがえる増毛山道

 「増毛山道の会」によって現在復元が進められている増毛山道。通る人もいなくなってから久しいこの山道跡に、現在再び注目が集まっています。増毛山道とは増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶための9里程(諸説あり)の道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削したものです。工事にかかった費用は同時期に行った濃昼山道と合わせて1650両とされ、現在の貨幣を1両=13万円と仮定すると2億1450万円。一介の商人が拠出する金額としては少なくない額ですが、これはどちらかというと幕府の意向に沿ったものでした。伊達家の文書中に山道開削に関し「利害ニ預リ無據請込(りがいにあずかりむこうけこみ)」という文面が見られ、自分が幕府の御用達であり、漁場を請け負っている立場上、自費で受けざるをえないという伊達家の状況が伺えます。

 幕府が何故山道の整備を依頼したのかについて明確な書類はありませんが、安政4年という時代を考えると、国土防衛という面が見えてきます。当時蝦夷地は南下するロシアに対向するため各地に陣屋を築いて東北諸藩に警備を命じており、宗谷から松前・函館へ至る緊急時の陸上道路の設置は重要な課題だったのではないでしょうか。

 明治に入ると山道は郵便物をやり取りするための重要な道路となり、途中には武好駅逓(ぶよしえきてい)が置かれました。雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達がここでお互いの郵便物を交換し、また戻っていくという業務が繰り返されたのです。駅逓には管理人が置かれ、旅人の宿泊などにも利用されました。山岳画家の坂本直行が大正15年頃に駅逓を訪れており、この時には60過ぎの老人が管理人をしており、訪れる人はほとんどいないと言われたことなどを画文集の中で述べています。

 今では増毛-浜益間は国道が整備され30分もかからずに行けてしまう時代ですが、一山越えて一日がかりだった当時の人々に思いを馳せてみるのもまた一興かもしれませんね。

9月のお勧め図書



世界を変えた人が子どもだったころのお話
 / PHP研究所


 様々な分野で活躍した偉人たちは、子どもの頃からなんでもできる特別な子だったのでしょうか?いえ、いえ。そんな子ばかりではありません。子ども向けの楽しい伝記。






やわらかな心をもつ
 / 小澤征爾・広中平祐


 指揮者と数学者、なかなか無い組み合わせの対談集。音楽、数学についてはもちろん、仕事への姿勢、教育、家族など、彼らの考え方から学べるものは本当に沢山です。