年末年始を迎えるにあたり、下記の期間閉館いたしますのでよろしくお願いします。
■年末年始休館
平成22年12月31(金)~平成23年1月5日(土)
休館中、本の返却は玄関横にある「返却ポスト」の方へ投函ください。
本年も沢山の方にご来館いただき、ありがとうございました。

お問合せ
総合交流促進施設元陣屋
電話 0164-53-3522
Fax 0164-53-3523
増毛町教育委員会
電話 0164-53-2427
メール:
motojinya@town.mashike.hokkaido.jp
携帯サイト

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Fax 0164-53-3523
増毛町教育委員会
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総合交流促進施設 元陣屋
総合交流促進施設元陣屋は、平成8年に増毛町が建設した文化交流施設です。館内には郷土資料室、図書室、会議室や多目的ギャラリーなどを備え、町内外の方に生涯学習・文化発信の場を提供しています。
また、郷土資料室では、幕末に秋田藩によって元陣屋が築かれ北方警備の拠点として機能した増毛町の歴史を学ぶことができます。
名称:増毛町総合交流促進施設 元陣屋(もとじんや)
住所:北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地
電話:0164-53-3522/ファックス:0164-53-3523
・開館時間
午前9時~午後5時
・休館日
毎週木曜日
※木曜日が祝日の場合はその前日
・料金(展示室)
大人・大学生 400円
高校生 300円
小・中学生 200円
※10名様以上は団体料金でそれぞれ100円引きとなります。
■会議室・ギャラリーの使用許可申請書(Excel)
■令和2年度の行事予定
えほんまつり……………………………………4月20日(月)
~ ~5月 6日(水)
こどもシアターvol.1…………………………8月22日(土)
こどもシアターvol.2…………………………9月11日(金)
ハロウィンでトリックオアトリート!……10月18日(日)
元陣屋まつり…………………………………12月13日(日)
また、郷土資料室では、幕末に秋田藩によって元陣屋が築かれ北方警備の拠点として機能した増毛町の歴史を学ぶことができます。
名称:増毛町総合交流促進施設 元陣屋(もとじんや)
住所:北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地
電話:0164-53-3522/ファックス:0164-53-3523
・開館時間
午前9時~午後5時
・休館日
毎週木曜日
※木曜日が祝日の場合はその前日
・料金(展示室)
大人・大学生 400円
高校生 300円
小・中学生 200円
※10名様以上は団体料金でそれぞれ100円引きとなります。
■会議室・ギャラリーの使用許可申請書(Excel)
■令和2年度の行事予定
えほんまつり……………………………………4月20日(月)
~ ~5月 6日(水)
こどもシアターvol.1…………………………8月22日(土)
こどもシアターvol.2…………………………9月11日(金)
ハロウィンでトリックオアトリート!……10月18日(日)
元陣屋まつり…………………………………12月13日(日)
2010年12月25日土曜日
「ルポルタージュ・にしん」に見る、“昭和30年・ニシンが消えたあの日”

第4章、「にしん場の子供たち」ではあまりの不漁に一家で出稼ぎに行った別苅の中学生の作文が紹介されます。「十月十日頃、家ぞく全部が、あばしりへゆくことになった。家には一せんの金もなく、春に使った道具などを売って、汽車ちんをこしらえた。」
もちろん不漁で出稼ぎに行かけなければならないのは他の家庭も同様で、「村の人はあわれなすがたでいもほりにいく」、「毎日待っていた修学旅行がニシンのためになくなった」など、子供たちの胸の痛くなるような記述が続きます。“ルポ”という形で記録された人々のつぶやきは、統計資料などではとうてい知ることのできない生身の心情を描き出し、時代の熱気を伴って現在の我々に思いを伝えてくれるのです。
/ 小野
12月のお勧め図書

おやおや、おやさい
石津 ちひろ 文・山村浩二 絵
今日は野菜たちのマラソン大会。自転車でぶつかりそうになったきゅうりの「きゅうりはきゅうにとまれない」など、楽しいことば遊びの絵本。親子で楽しめます。

脳からストレスを消す技術
有田 秀穂 著
今注目の脳生理学者による、1日5分のストレス解消法。脳の仕組みを知ればストレスは解消できます。わかりやすい説明で、自分の精神状態を知ることができるのです。
2010年11月18日木曜日
写真で語る時代の証人、クラシックカメラ「ベビーパール」

写真は以前町内の方から寄贈いただいたクラシックカメラ、ベビーパールです。撮影にはベスト版と呼ばれる3×4センチのフィルムを使用します。メーカーは小西六(こにしろく)本店、後のコニカで、昭和9年に発売されました。
「光を写し取る機械」であるカメラは1826年、フランスのニエプスによって初めて実現します。ガラスにアスファルトを塗ったものにレンズを通した光を当てることで写真の撮影を可能としたのです。1889年になるとアメリカのイーストマン・コダック社がセルロイド製のロールフィルムを開発。これにより写真撮影が一般へと広く普及するようになりました。
フィルムカメラの黎明期はドイツ・イギリス・アメリカが世界の市場を席巻しており、日本はこうした海外のカメラを模倣するところから開発が始まりました。もともと薬種屋だった小西六は写真材料を輸入販売する傍ら、日本初のカメラ「チェリー手提暗函」を明治36年に開発。昭和に入ると同社はドイツのツァイス・イコン社製のコンパクトなカメラ「ベビーイコンタ」に刺激を受けて、ベビーパールを発売します。ベビーパールはその写りの精度の良さから本家のイコンタを超えると評判になり、多くの愛用者を産みました。模倣から始まった日本のカメラ作りが、ようやく世界に通じるレベルへ近づいたことを証明したのです。
ちなみに増毛町で写真館が営業を開始したのは明治27年、石川雄之助の石川写真館が最初です。場所は現在の暑寒町4丁目でした。町の人に古い家族写真を見せていただくと石川写真館の刻印が押してある写真を多く見かけます。昭和に入ると写真館も増え、一般の人にも写真を趣味にする人が出てきます。ベビーパールはそんな時代の増毛の風景を写してきたのかも知れませんね。
/ 小野
11月のお勧め図書

ちっちゃなトラックレッドくん
みやにしたつや 著
トラックのレッドくんは、たぬきさんからうさぎさんに荷物を頼まれたのですが、道の途中でタイヤがパンクしてしまいます。さあ、レッドくんは荷物をぶじに届けることができるのでしょうか?

16歳の教科書
7人の特別講義プロジェクト 編
君たちはなぜ、勉強しているのだろう。16歳という今こそ、真剣に考えてほしい。自分が勉強する理由を。大人が読んでも面白い、全国学校図書館協議会選定図書です。
2010年10月18日月曜日
「とびだすカードをつくろう!」に参加しませんか。
2010年10月10日日曜日
明治の幕開けと文学作品
明治時代は維新とともに突然その幕をあげました。増毛町も他地域同様、ニシン漁が隆盛を極め、人々はぞくぞくと海峡を渡って新天地を目指しました。しかし、開拓そのものは容易なものではなく、生きることのみを日々追い続ける、厳しい時代でもありました。
生活に余裕が出て創造的な文化活動を人々が目指せるようになったのは明治時代も半ばを過ぎていたのです。こうした時代には漁業で潤う町の経済とはうらはらに、本州から流れてきた文人の「漂白の文学」とも呼べる作品が残されました。
口語短歌の先駆者である鳴海要吉(なるみようきち)が青森からやってきたのは明治42年。彼は増毛小学校教師として赴任しましたが、滞在は一年間だけでした。ローマ字を生徒に教えたりエスペラント語を研究するなどの進歩的な気鋭が当時の風潮では社会主義者として危険視され、古丹別の山奥へ赴任させられた挙句、不敬罪で免職にあってしまうのです。
その頃の要吉を主人公に、田山花袋(たやまかたい)が「トコヨゴヨミ」という小説を発表しており、この中で要吉は山田勇吉という名前で登場しています。教師の職を追われ、薬の行商で暮らす苦しい生活に加え、未だに危険人物として警察に監視される日々に不安を募らせた彼は「彼方から此方へと漂白して」行くのでした。
また、明治40年に道立増毛病院に赴任してきた伊達李俊という医師を題材とした人物が、徳富蘆花(とくとみろか)の「みみずのたはごと」で安達医師として登場しています。彼は本州に戻った後精神を患い自殺して世を去りました。一年の三分の一を雪に埋もれて暮らす閉ざされた北国の生活に、安達医師の感じた言い知れぬ寂しさが綴られています。
生活に余裕が出て創造的な文化活動を人々が目指せるようになったのは明治時代も半ばを過ぎていたのです。こうした時代には漁業で潤う町の経済とはうらはらに、本州から流れてきた文人の「漂白の文学」とも呼べる作品が残されました。
口語短歌の先駆者である鳴海要吉(なるみようきち)が青森からやってきたのは明治42年。彼は増毛小学校教師として赴任しましたが、滞在は一年間だけでした。ローマ字を生徒に教えたりエスペラント語を研究するなどの進歩的な気鋭が当時の風潮では社会主義者として危険視され、古丹別の山奥へ赴任させられた挙句、不敬罪で免職にあってしまうのです。
その頃の要吉を主人公に、田山花袋(たやまかたい)が「トコヨゴヨミ」という小説を発表しており、この中で要吉は山田勇吉という名前で登場しています。教師の職を追われ、薬の行商で暮らす苦しい生活に加え、未だに危険人物として警察に監視される日々に不安を募らせた彼は「彼方から此方へと漂白して」行くのでした。
また、明治40年に道立増毛病院に赴任してきた伊達李俊という医師を題材とした人物が、徳富蘆花(とくとみろか)の「みみずのたはごと」で安達医師として登場しています。彼は本州に戻った後精神を患い自殺して世を去りました。一年の三分の一を雪に埋もれて暮らす閉ざされた北国の生活に、安達医師の感じた言い知れぬ寂しさが綴られています。
10月のお勧め図書
2010年9月19日日曜日
よみがえる増毛山道
「増毛山道の会」によって現在復元が進められている増毛山道。通る人もいなくなってから久しいこの山道跡に、現在再び注目が集まっています。増毛山道とは増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶための9里程(諸説あり)の道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削したものです。工事にかかった費用は同時期に行った濃昼山道と合わせて1650両とされ、現在の貨幣を1両=13万円と仮定すると2億1450万円。一介の商人が拠出する金額としては少なくない額ですが、これはどちらかというと幕府の意向に沿ったものでした。伊達家の文書中に山道開削に関し「利害ニ預リ無據請込(りがいにあずかりむこうけこみ)」という文面が見られ、自分が幕府の御用達であり、漁場を請け負っている立場上、自費で受けざるをえないという伊達家の状況が伺えます。
幕府が何故山道の整備を依頼したのかについて明確な書類はありませんが、安政4年という時代を考えると、国土防衛という面が見えてきます。当時蝦夷地は南下するロシアに対向するため各地に陣屋を築いて東北諸藩に警備を命じており、宗谷から松前・函館へ至る緊急時の陸上道路の設置は重要な課題だったのではないでしょうか。
明治に入ると山道は郵便物をやり取りするための重要な道路となり、途中には武好駅逓(ぶよしえきてい)が置かれました。雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達がここでお互いの郵便物を交換し、また戻っていくという業務が繰り返されたのです。駅逓には管理人が置かれ、旅人の宿泊などにも利用されました。山岳画家の坂本直行が大正15年頃に駅逓を訪れており、この時には60過ぎの老人が管理人をしており、訪れる人はほとんどいないと言われたことなどを画文集の中で述べています。
今では増毛-浜益間は国道が整備され30分もかからずに行けてしまう時代ですが、一山越えて一日がかりだった当時の人々に思いを馳せてみるのもまた一興かもしれませんね。
幕府が何故山道の整備を依頼したのかについて明確な書類はありませんが、安政4年という時代を考えると、国土防衛という面が見えてきます。当時蝦夷地は南下するロシアに対向するため各地に陣屋を築いて東北諸藩に警備を命じており、宗谷から松前・函館へ至る緊急時の陸上道路の設置は重要な課題だったのではないでしょうか。
明治に入ると山道は郵便物をやり取りするための重要な道路となり、途中には武好駅逓(ぶよしえきてい)が置かれました。雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達がここでお互いの郵便物を交換し、また戻っていくという業務が繰り返されたのです。駅逓には管理人が置かれ、旅人の宿泊などにも利用されました。山岳画家の坂本直行が大正15年頃に駅逓を訪れており、この時には60過ぎの老人が管理人をしており、訪れる人はほとんどいないと言われたことなどを画文集の中で述べています。
今では増毛-浜益間は国道が整備され30分もかからずに行けてしまう時代ですが、一山越えて一日がかりだった当時の人々に思いを馳せてみるのもまた一興かもしれませんね。
9月のお勧め図書
2010年8月20日金曜日
8月のお勧め図書
元陣屋の絵図に見る秋田藩の苦悩

幕末の安政2年(1855年)以降増毛に秋田藩の元陣屋が設営され、北方警備の拠点として機能していたことはよく知られています。南下するロシアの脅威に備え、蝦夷地の各地に東北諸藩が派兵され、警備にあたっていたのです。
さて、ここに一枚の絵図があります。「マシケ御陣屋御任地面境内略図」と題されたもので、陣屋を中心とした地理的状況が描かれています。縮尺の誇張はありますが海岸線や土地の起伏は細部まで比較的正確に描写されているようです。陣屋の東側には小さな川が流れており、その先には池のような形になっていますが、これは現在の稲葉川です。
箱館奉行の巡検に随行した仙台藩士の玉虫左太夫は増毛の陣屋を見て「海岸から遠く、低い平地にあって、なぜこのような見晴らしの悪い場所に陣を構えたのかわからない」と日記に記しています。防衛上の戦略を考えれば海岸よりも一段高い場所を選ぶのが当然であり、これでは有事の際に周囲から攻められればひとたまりもないというわけです。一方で海岸から奥まった場所で斜面の影という位置は風当たりが弱く、冬期間の寒さを凌ぐには都合の良い立地であるという側面もあります。文化年間の北方警備で津軽藩が多くの犠牲を出した教訓から、秋田藩は藩士の健康面を一番重要視していたのかもしれません。
図中に「朱引内御任地」と書かれてある通り、実際の絵図では秋田藩の領地となった土地が赤い線で囲まれており、陣屋警衛にあたってその力の及ぶ範囲が図示されています。注意してほしいのは秋田藩が沿岸の警備をその重要任務としているにもかかわらず、運上屋や船附場がある海岸地帯はその朱引の線の外側にあるということです。これはつまり、漁場のある海岸線一帯は場所請負制度のもとで漁業を行っていた商人の管轄下に置かれており、秋田藩は漁場経営に関与することができなかったことを如実に表しています。藩が飢饉や災害で苦しい財政の中、目の前の豊富な資源を掌握できない歯がゆさ、最善とは言い難い陣屋構築とも相まって、秋田藩の悩みは大きかったのではないでしょうか。そんな情勢がこの図には表れているように思えます。
2010年8月8日日曜日
レコード展、始まりました。

■特別展 「昭和歌謡・レコードに耳を澄ませば」
■期 日 8月8日(日)~8月29日(日)
■休館日 毎週月曜日
本日より、元陣屋特別展が始まりました。昭和初期から昭和40年ころまでのレコードを展示し、流行歌や歌手、その時代背景について解説しています。また、会場内にはレコードプレーヤーも用意し、展示してあるレコードを実際に鳴らして聞くこともできるようになっています。

こちらは学研の「大人の科学」から「ベルリナー式円盤蓄音機」。針とコップを使い、CDーROMやカップ麺のフタなどに音を録音・再生できるというものです。午後1時~2時の間にご来場いただければ実際に録音・再生を体験することができます。
※8月14日~16日は12時~13時までです。
さて、ところでレコードはいったい誰が発明したのでしょうか。展示の導入部分から少しだけご紹介いたしますね。
■レコードを発明したのは誰?
・最初のレコードは筒型だった
世界で初めて音を記録、再生する仕組みを作ったのは発明王として 有名なトーマス・エジソンです。彼は1877年12月6日、フォノグラフという機械を発表します。これは真鍮でできた円筒型のものに針で音を記録・再生する世界初の発明でした。「空気の振動を溝に凸凹で記録する」ことで、眼に見えない「音」というものを形に残すことができるようになったのです。
・エジソン VS ベルリナー の熾烈な戦い
エジソンの発明したフォノグラフは画期的でしたが、円筒型であるため複製が難しいことや、破損しやすいなどの欠点を抱えていました。
現在のレコードにつながる円盤型の録音機を発明したのはエミール・ベルリナーです。エジソンの発表から10年たった1887年、彼はグラモフォンという機械を発明します。最大の特徴は丸くて薄い円盤に音を記録できることで、これにより音源の複製が容易になり、他にも盤面にレーベルを貼ったり、省スペースで収納できるなどの利点がありました。また、音の溝を従来の縦方向ではなく横に振動するようにしたため、溝の深さが一定になり、音の安定性が格段に上昇したのです。
エジソンはこれに対抗し、円筒をロウ缶にして音質を向上させたり、複製技術を開発したりして円筒式の蓄音機を作り続け、アメリカではエジソン方式が、ヨーロッパではベルリナー方式が主流となりましたが、結果的に大量生産に向いているベルリナーのレコードが一般的になっていきました。「誰が“レコード”を発明したのか?」という質問に関しては、蓄音機を発明したのはエジソンですが、いわゆる円盤型の“レコード”を発明したのはベルリナーである、ということが言えそうです。
皆様のご来場をお待ちしております。
2010年7月23日金曜日
特別展「昭和歌謡・レコードに耳を澄ませば」

平成22年度 元陣屋特別展
昭和歌謡・レコードに耳を澄ませば
■期間:平成22年8月8日(日)~8月29日(日)
■会場:元陣屋2階ギャラリー
大正から昭和に時代が変わると、音楽を乗せるメディアがレコード・ラジオ・映画と広がり、歌謡曲はそれに伴い爆発的に浸透していきます。「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われ、世相や流行りが歌謡曲として人々に口ずさまれる時代の幕開けでした。
「丘を越えて」「東京ラプソディー」「銀座カンカン娘」などなど、昭和初期のヒット曲には今でも歌われるものが少なくありません。期間中は昔懐かしいレコードを多数展示し、実際にプレーヤーで聞きながら、ちょっとノイズ混じりの懐かしい音に耳を傾けてみてください。
「オリジナル・レコードを作ろう」のコーナーでは自分の声を吹き込めますよ!
2010年7月7日水曜日
7月のお勧め図書
希代の大ぼら吹き、はんべんごろう~元陣屋構築前夜~
“はんべんごろう”とは、ハンガリー出身のオーストリア軍人“ファン・ベニョフスキー”。長崎出島のオランダ商館員が“ファン・ベンゴロ”と綴りを誤ったことから“はんべんごろう”になってしまいました。この男、1771年になぜかオランダ商館長宛てにドイツ語で手紙を2通送っています。中身は阿波の国に寄港した折に良くしてもらったのでお礼を言うという内容。なぜ政府関係者でなくオランダ商館に送ったのかがそもそも意味不明ですが、この男は手紙の中で物騒なことを書いていました。
“ルス国が日本を現在巡察しており、来年は松前とその近辺を占拠する計画である”というのです。この手紙についてオランダ商館長アルメナウルトは幕府へ報告しますが、幕閣はまともに取り合いませんでした。ところがこの手紙が後に世間に漏れてしまい、諸外国への危機感を強めた林子平は「海国兵談」を著し、ロシアの南下に警告を発します。子平は危険思想家として仙台へと追いやられてしまいますが、北方警備の必要性や海軍の増強を唱える自説は後の世に強く影響を与えました。
…ところが。このベニョフスキー、彼の書いた回想録は大ぼらと作り話が満載です。7年戦争にオーストリア軍大佐として出陣したことも嘘なら父が伯爵で将軍というのも嘘。ロシアとの戦いで捕虜になり、カムチャッカ半島へ流されますが、そこで陸軍大尉の長女と熱烈な恋に落ちたというのもでっちあげ。やがてベニョフスキーはこの地で反乱を起こし、船を奪って出航します。一路本国へ帰るはずが途中で嵐に遭い、水と食料を求めて日本に立ち寄ったというのが冒頭の手紙につながるわけです。で、当時本当にロシアが日本近海を測量して要塞を築き、侵略の準備をしていた…わけはありません。千島列島にはささやかな居住区があるに過ぎず、アイヌ人との関係も悪化、カムチャッカの開発すら手がつかない状況だったのですから…。
ベニョフスキーはこの後台湾に立ち寄り、住民と紛争を起こした後マカオに寄港、ヨーロッパへ帰って例の「回想録」出版で大当たり。その後マダガスカルに植民を試みた挙句、地元住民を扇動してフランス軍と戦い、流れ弾にあたって死亡するというよく分からない人生を送ります。
結局、何の根拠もない嘘っぱちの手紙が北方への注意を喚起し、国境警備という流れをつくるきっかけになったのです。歴史って面白いですね。
参考文献『黒船前夜』渡辺京二(元陣屋にも置いてあります)
写真:ファン・ベニョフスキー
“ルス国が日本を現在巡察しており、来年は松前とその近辺を占拠する計画である”というのです。この手紙についてオランダ商館長アルメナウルトは幕府へ報告しますが、幕閣はまともに取り合いませんでした。ところがこの手紙が後に世間に漏れてしまい、諸外国への危機感を強めた林子平は「海国兵談」を著し、ロシアの南下に警告を発します。子平は危険思想家として仙台へと追いやられてしまいますが、北方警備の必要性や海軍の増強を唱える自説は後の世に強く影響を与えました。
…ところが。このベニョフスキー、彼の書いた回想録は大ぼらと作り話が満載です。7年戦争にオーストリア軍大佐として出陣したことも嘘なら父が伯爵で将軍というのも嘘。ロシアとの戦いで捕虜になり、カムチャッカ半島へ流されますが、そこで陸軍大尉の長女と熱烈な恋に落ちたというのもでっちあげ。やがてベニョフスキーはこの地で反乱を起こし、船を奪って出航します。一路本国へ帰るはずが途中で嵐に遭い、水と食料を求めて日本に立ち寄ったというのが冒頭の手紙につながるわけです。で、当時本当にロシアが日本近海を測量して要塞を築き、侵略の準備をしていた…わけはありません。千島列島にはささやかな居住区があるに過ぎず、アイヌ人との関係も悪化、カムチャッカの開発すら手がつかない状況だったのですから…。
ベニョフスキーはこの後台湾に立ち寄り、住民と紛争を起こした後マカオに寄港、ヨーロッパへ帰って例の「回想録」出版で大当たり。その後マダガスカルに植民を試みた挙句、地元住民を扇動してフランス軍と戦い、流れ弾にあたって死亡するというよく分からない人生を送ります。
結局、何の根拠もない嘘っぱちの手紙が北方への注意を喚起し、国境警備という流れをつくるきっかけになったのです。歴史って面白いですね。
参考文献『黒船前夜』渡辺京二(元陣屋にも置いてあります)
写真:ファン・ベニョフスキー

2010年6月27日日曜日
へんてこな北海道地図が語るもの

へんてこな北海道地図が語るもの
(広報増毛「増毛歴史小話」より)
日本の北の端にある北海道。江戸時代末期までこの大きな島「蝦夷地(えぞち)」の全容は謎のままでした。元々和人が松前や江差など道南にしか拠点を作らなかったことや、国内における測量技術が未発達だったことが原因として挙げられます。蝦夷地は大きいのか小さいのか、島なのか大陸から出た半島なのか、地形的なこともほとんど知られていなかったのです。
写真は1621年、松前を訪れたイエズス会士ジェロニモ・アンジェリスによって描かれたものです。蝦夷地は東西に長い、本州よりも巨大な島として表現されています。西の端にはTexxoy(天塩)という表記が見られ、「松前から船で西へ○○日間行くと天塩に着く」といった情報から位置を特定したらこのような地図になったのではないかと考えられています。
1670年頃、日本でもようやく全国の地図を整備する動きが起こり各藩が提出した資料を基に「正保日本図(しょうほうにほんず)」が製作されました。松前藩による蝦夷地の地図は、縮尺はひどく狂っていて(青森よりも小さい!)形も楕円形というひどいものでしたが、沿岸を一通り調査したらしく、各地の地名を知ることができます。初めて地図上に増毛が現れるのはこのときで、マシケエソ(当時の浜益のこと)、ホロトマエソ(増毛のこと)、トママエソ(苫前)、それに暑寒別川らしきものもあります。
寺島良安が1715年に発刊した百科辞典「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」に記されている蝦夷地はとても縦長です。相変わらず形は違いますが、徐々に蝦夷地の調査が進んでいる証拠として、記録される地名が大幅に増えており、樺太や歯舞諸島等も描かれています。ヘツカリ(別苅)、ホロトマリ(増毛)なども記入されました。
天命5年の調査などを経て徐々に地図の輪郭は正確になっていき、1821年の伊能忠敬による「大日本沿海與地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」でほぼ完璧な測量による地図が完成します。しかし、この地図はあまりにも正確だったために軍事上の機密として公にはされませんでした。
地図上の蝦夷地が徐々に正確になっていく様、それは和人の支配が北辺に行き届いていく過程であり、島国日本が国土の防衛を意識していく歴史の再現とも言えるでしょう。
増毛歴史小話 5月号
増毛町の広報で現在連載している特集記事「増毛歴史小話」からご紹介いたします。

民話から見える昔の増毛
注:写真は別苅海音寺の地蔵
明治時代に入ってから本格的な開拓が進み、高々140年程しか歴史のない「北海道」という土地は、古来からの暮らしや信仰の中で育まれるべき民話・伝承の類が極端に少ない地域であると指摘されてきました。
それでもアイヌ民族の神々にまつわる神話や開拓時代の人々の思いが込められた民話は、各地に見ることができます。その多くは、困難が絶えなかったであろう当時の人々が生きていく中で肝に銘じておくべき教訓話や、実際にあった歴史事実が若干ストーリー性を加えて語り継がれているものなどで構成されているようです。
昭和56年に高橋明雄氏が著した『シュシュシナイの権六狸』には留萌管内を歩いて氏が聞き取り調査をした民話35話が収められており、もちろん増毛に由来するものもあります。
たとえば町史に収録されている「増毛山道物語」は、秋田藩統治時代に増毛―浜益間をつなぐ山道において、旅人が山賊に襲われたこと、後に山賊は捕えられ多くの犠牲者を供養するために地蔵が安置されたことなどが伝えられています。当時の人々が険しい山道を越えて歩かなければならなかった苦労や、明かりの無い時代に徒歩で旅をすることへの寂しさや恐怖も想像することができます。
タイトルにもなっているシュシュシナイの権六狸は、現在の留萌と増毛の境目にあたるシシナイ(平成10年より字改正で阿分となっています)が舞台となっており、土地に住まう狸の権六が、先立たれた妻の7回忌に供養するお金が無いことを嘆く与平じいさんの願いを叶えてあげたいと金貨に化けてじいさんの宅へと転がり込みます。お経を上げてくれた龍淵寺の小僧が帰りに信砂川をわたる際、懐から逃げようと飛び出した権六が川で溺れてしまうところで話は終わるのですが、当時の信砂川には橋がかかっておらず、渡し船を頼らなければならなかった様子が見て取れますし、狸という動物自体も民家の周辺で身近に見られたという環境がストーリーの背後にはあったでしょう。
「オンネの枯れずの井戸」に由来している水神の碑や「増毛山道物語」の中で祀られた地蔵は今でも町内で見ることができます。前述の本『シュシュシナイの権六狸』を片手にゆかりの場所を散策してみるのも歴史の楽しみ方かもしれませんね。

民話から見える昔の増毛
注:写真は別苅海音寺の地蔵
明治時代に入ってから本格的な開拓が進み、高々140年程しか歴史のない「北海道」という土地は、古来からの暮らしや信仰の中で育まれるべき民話・伝承の類が極端に少ない地域であると指摘されてきました。
それでもアイヌ民族の神々にまつわる神話や開拓時代の人々の思いが込められた民話は、各地に見ることができます。その多くは、困難が絶えなかったであろう当時の人々が生きていく中で肝に銘じておくべき教訓話や、実際にあった歴史事実が若干ストーリー性を加えて語り継がれているものなどで構成されているようです。
昭和56年に高橋明雄氏が著した『シュシュシナイの権六狸』には留萌管内を歩いて氏が聞き取り調査をした民話35話が収められており、もちろん増毛に由来するものもあります。
たとえば町史に収録されている「増毛山道物語」は、秋田藩統治時代に増毛―浜益間をつなぐ山道において、旅人が山賊に襲われたこと、後に山賊は捕えられ多くの犠牲者を供養するために地蔵が安置されたことなどが伝えられています。当時の人々が険しい山道を越えて歩かなければならなかった苦労や、明かりの無い時代に徒歩で旅をすることへの寂しさや恐怖も想像することができます。
タイトルにもなっているシュシュシナイの権六狸は、現在の留萌と増毛の境目にあたるシシナイ(平成10年より字改正で阿分となっています)が舞台となっており、土地に住まう狸の権六が、先立たれた妻の7回忌に供養するお金が無いことを嘆く与平じいさんの願いを叶えてあげたいと金貨に化けてじいさんの宅へと転がり込みます。お経を上げてくれた龍淵寺の小僧が帰りに信砂川をわたる際、懐から逃げようと飛び出した権六が川で溺れてしまうところで話は終わるのですが、当時の信砂川には橋がかかっておらず、渡し船を頼らなければならなかった様子が見て取れますし、狸という動物自体も民家の周辺で身近に見られたという環境がストーリーの背後にはあったでしょう。
「オンネの枯れずの井戸」に由来している水神の碑や「増毛山道物語」の中で祀られた地蔵は今でも町内で見ることができます。前述の本『シュシュシナイの権六狸』を片手にゆかりの場所を散策してみるのも歴史の楽しみ方かもしれませんね。
5月のお勧め図書
4月のお勧め図書
「元陣屋」とは?

安政2年・1855年に、秋田藩が増毛での北方警備を命じられ、翌年侍の詰め所として元陣屋が建てられました。現在の増毛町の永寿町一帯が元陣屋の跡地になっており、当施設の名称の由来にもなっています。
幕末の1853年はペリーが黒船で浦賀に来航した年です。当時和人(日本人)の漁場は樺太にまで拡大していました。同時にこの年、ロシア船が樺太のクシュンコタンを占拠するという事件が起こります。そのため急きょ北方警備の必要が生じ、蝦夷地(北海道)各地は幕府の直轄となり、東北諸藩が警備と開拓に赴き、陣屋を各地に建設しました。
元陣屋の「元」は拠点という意味です。秋田藩は宗谷と樺太にも陣屋を築いて警備にあたりましたが、こちらは「出張(デバリ)陣屋」と呼ばれ、夏の間だけの警備を行い、冬の間は増毛に戻ってきて越冬することになっていました。
秋田藩はあしかけ12年間、増毛の元陣屋を中心として警備と開拓を行いました。実際にロシアと交戦する機会はありませんでしたが、建物は非常に簡素なつくりで、冬の間には多くの凍死者や病死者が出ました。病気の原因の多くは冬季間の野菜不足による水腫病(現在の壊血病)と言われ ており、多い年では一冬で30名以上が病気で命を落としています。彼等にとって一番恐ろしかったのは、ロシア軍よりも北海道の厳しい寒さだったのかもしれま せん。

2010年6月4日金曜日
ご利用案内・アクセス
名称:増毛町総合交流促進施設 元陣屋(もとじんや)
住所:北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地
電話:0164-53-3522/ファックス:0164-53-3523
・開館時間
午前9時~午後5時
・休館日
毎週木曜日
※木曜日が祝日の場合はその前日
・料金(展示室)
大人・大学生 400円
高校生 300円
小・中学生 200円
※10名様以上は団体料金でそれぞれ100円引きとなります。
■会議室・ギャラリーの使用許可申請書(Excel)
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住所:北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地
電話:0164-53-3522/ファックス:0164-53-3523
・開館時間
午前9時~午後5時
・休館日
毎週木曜日
※木曜日が祝日の場合はその前日
・料金(展示室)
大人・大学生 400円
高校生 300円
小・中学生 200円
※10名様以上は団体料金でそれぞれ100円引きとなります。
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